連載第4回(5回完結)
メディアとFFのあいだ

 FF文化論と銘うって気楽にはじめてはみたものの、こういうのは結局うまく行かないんじゃないかという気がしてきました。弱気です。筆者の力量ということもありますが、FF屋人種というのは、作って飛ばして競技がやれればそれで仕合わせ、満足という手合いばかりで、そんなところに技術論ならまだしも文化論なんて、と早くも後悔しきりです。始めたからには勇気を出して続けますが、勢いあまって危険水域にまで踏み込む行き過ぎを冒すかもしれません。その節は笑ってご容赦ねがいたいと思います。
 小生縁あってFF界の一員となり、それなりに充実した時間を過ごせもし、楽しい思いもさせてもらいましたが、久しく気になっていたことのひとつに、FF界と外部メディアの間の気の遠くなるほどの関係の薄さ、ということがあります。ひとことでいえば、FFにジャーナリズム不在ということです。少し長くなりますが、文化論者としては気になるこの問題をめぐって考えてみたいと思います。

 なにかのカルト集団みたいに世を憚ってやっているわけじゃなし、特異集団とはいえ嫌われる要素もなさそうなのに、新聞・雑誌・TVその他報道メディア方面からトンとお呼びがかからない。メディアとの間にこれほどの引っかかりの無さというのはどういうことなんだろう、とずっとそう思っていました。小生の前業が雑誌編集者だからよけいそう思うので、ふつうの愛好家には気にならないのかもしれませんが。

 話をアソビと人間、というあたりからぼちぼち始めます。ふつう人間は仕事の業績で評価される世の習わしですが、そのいっぽうに“遊びせんやと生まれけむ”―人生アソビだよ(『梁塵秘抄』)―というんだって古い昔からあります。とすると、仕事とアソビは人生のクルマの両輪か。
 ところが小生、両輪のうちの片っぽを欠落して生まれてしまった人間のようで、何やっても不器用なくせに根っからのアソビ好き人間、仕事のほうではコレといえるほどのことをやってきてはいません。それで貧乏してるわけで自慢にはなりませんが。
 それでもある業界に限れば『日本ステレオ・コンポ・グランプリ』てな大仰なイベントを主催して、石井を知らなきゃモグリだみたいな一時期もあったことは事実ですが、時たまたま時勢の幸運に恵まれただけだったのは、本人がいちばんわかっています。仕事でウス陽が当っていた当時でさえ徹夜マージャンやら何やらでアソビ呆けてしばしば帰宅せず、アソビの合い間にちっとは仕事でもするか、ぐらいの野放図さだったのですから。
 老齢になって若い時みたいにアソビをする気力もなくなってみると、すぐる年月少なからぬお金やらエネルギーやらを費やしてアソビから得られたものは何だったろう、と時おり考えることがあります。とりわけ年季を入れちゃった部類の模型ヒコーキ遊びについて。人間年をとるとつまらないことを考えるもので、元気な選手時代にはこんなこと考えません。
 そうやってつらつら考えてみると、これが意外なことにどうもハッキリしないのです。仕事が人間を作るというのが世間相場ならアソビだって、と思うものの、コレダといえるものを思いつけない。FF模型アソビは文化としての形が画きにくい。そんなふうに思えます。この趣味をやっていて世間づきあいの中で困るのは、世間様への通路がないということです。
 小生の性癖がそうなのか、別方面の趣味人の顔をさらしていた職業がらみの習性でそうなのか、そのへんよくわからないんですけれども、自身の模型ヒコーキ趣味はなるべく知られたくないという構えで暮らしてきましたから、小生の場合はよけいにそうなのかもしれません。だから小生の模型ヒコーキ趣味を知る友人・知人はそんなにはいないのです。同好諸兄の場合はどうなんでしょう。模型ヒコーキに無縁な知り合いとのつき合いの場で、この趣味の話題を持ち出したりするんでしょうか。異星人相手と同じ、そんなことしたって通じっこないとハナからあきらめていますので、この趣味に関してだけは市民生活のなかで寡黙にしくはなしと、淋しいことですが小生の場合は、そういう仕儀になっています。


ジャーナリズムが文化を耕す

 話はあらぬ方向に飛ぶようですが、小生は詩・短歌・俳句なんかの方面もまあ好きです。若いころ同人誌をやった余熱が残っていて同好仲間もいます。こちら方面のことは出版物メディアその他で情報が行き渡っていますから、趣味を抱いて孤独ということはありません。同好仲間はいたるところにいて、思わぬところで嬉しい出合いがあったりします。旅の宿なんかでそこで知り合った同宿人同志が、談たまたま好きな萬葉歌人に及んだりすれば、一夜語り合って興つきず、といった至福の時間を分かち合えたりもします。小生には不案内な方面ですが、これがマニアに近い映画好き同志だったりすれば、和・洋・古・今の傑作・愚作の品定めから男優・女優・カントクの好きだ嫌いだまで、熱っぽいオシャベリ空間を共有したりもできるでしょう。
 人間稼業をやっていて、こういう小さな出合いも人生のささやかなぜいたくだと思うのですが、FF愛好家世界でこういう快事には出合えなんだろうと思います。選手相互のアタマの中に同好者名簿が出来ていて、それで間に合ってしまう世界だから、思わぬところで知られざるこの道の名手に出合うなんて、そんなことはまずありっこない。そのかわり、知っている同志の交歓の場でなら、共通話題で場が大いに盛り上がる、それは趣味を同じくする者だけの喜びだと思います。
 ここで言いたいことは要するに、趣味もアソビもそれぞれ独自魅力をもった文化としてみるならば、歴史に磨かれジャーナリズムに耕された土壌のあるなしで、文化としての拡がりや厚みが違う。FFの土壌はせまくて痩せているな、と感じます。


市民社会への露出がないために

 いまさら言うまでもないないことですが、スペシャリスト達がやるゴム捲き国際競技なんて、世間に知られていません。竹ヒゴライトプレーンやラジコンヒコーキなら知られています。メディアが報じずFF界から外部世界への発言もないと、情報化社会といわれる時代にも嘘みたいな空白スポットができてしまう例ですが、オリンピックに相当する世界選手権を頂点とするFF競技世界を世間は知りません。そういう競技をやる大の大人のスペシャリスト達がいて、どんな構造の機体でどんな内容の競技をしているのか、ほんとうに知らないのです。競技を見に集まる見物人もいません。広い空間を使ってやる野外競技で、こんなに見物人がいないのも珍しいんではないか。
 日本国民が航空イベントのたぐいに関心がないのかというとさにあらずで、たとえば空軍基地を解放してやる航空ショーなんかには、あきれる程の見物人が集まります。小生は昨夏、厚木米軍基地に航空ショーを見物に出かけましたが、これがなんとも暑い日で、炎天下に広い飛行場のあっちこっちに展示してある大型機の翼を日除けに、人だまりがいくつも出来たりして、この日の人出が新聞記事によるとなんと25万人。
 FFモケイ競技と実機の航空ショーを一緒にするのもどうかとは思いますが、メディアが取り上げるか否かで大差なことかくの如しで、メディアが報じないのはこの情報化時代にあっては存在しないのと同じ、といっていい位です。FF世界が報道メディアや市民社会からどれ程遠い距離のあるのかためしに考えてみて、FF世界選手権戦に日本代表チームがかりに悲願の優勝を遂げたとしても、日本FF界のこの一大快事に関心を寄せる報道メディアが見つかるかどうか。

 とこのように書いてはきたものの、淋しい方向へばかり話が進んで、それがFF文化を論じる目的かと思われても心外なので、唐突ですがここで転調します。前説を翻すというのではありませんで視点のほうを変えます。FFにジャーナリズム不在は確かですが、ジャーナリズム不在と裏腹の関係にある(と思われる)FF界独自の“美質”のほうのことも考えてみたいと思います。
 もともとの話が、FF世界の報道メディアの関与がどうのこうのなんて、そんなこと気にしてるのは小生ひとりの思い込みに過ぎないのかも知れません。長いFF人生で、そんな話は聞いたことがないからです、それがどうした、それでFF界は不便も不都合も感じてないぞ、とどこやらから叱声がとんできそうな気もします。誤解なきように、ここであわてて誓って申しますが、小生これっぽっちも改革主義者なんかじゃありませんから、FF界体質を何とかしなきゃとか、変らなきゃとか、言ってるわけじゃありません。わが住むFF世界はこんなふうに見えると、そう言ってるだけです。


勝っても有名になれない、という“美質”

 視点を変えると、FF界体質にどういう“美点”が見えてくるか。“美点”について私見を言えば、新空力技術に挑戦する正統的アマチュア精神、そう飾って言ってみたい気がします。まだ商業主義に汚染されてない原始的純粋アマチュア精神。それゆえに、昨今ではむしろ古典的ともいいたいFF界“美質”が、現代ジャーナリズムと相いれないという図式がひとつ浮かびます。誰もが知るように、現代ジャーナリズムは商業主義とつるんだ形でのみ存在しますから、扱って商売にならないFF世界はジャーナリズムと親密になりようがない、根っこのところはたぶんそれだと思います。そうだとすれば、ジャーナリズムには案外に邪悪な部分を内包する一面がありますから、それと関与がないならないなりに、清く正しく美しくあることをつらぬき得て、そのほうがむしろ幸い、そういう見方だってできようかと思います。

 FF人体質に通底するアマチュアリズムの根っこの部分を、もう少し掘り下げて考えてみましょう。まず選手諸兄は、なんでまたあんなにも熱心に競技に専心できるのか。バカバカしいほど素朴すぎる質問ですが、あえて問います、どうしてなんでしょう。
 しかるべき競技に備えて長い準備時間とエネルギーを費やし、本番競技は別人のようにコワイ顔して戦って、それで幸いに勝利に恵まれたとして、選手には実質何が得られるのか。金品の利得でないとすると世俗的な名誉か。いやいや、FF競技でどんなに勝ったところで有名になんかなれません。プロ競技目的として自明すぎるそこのところにFF競技者は関係のかけらもないとすると、選手を競技に駆り立てるものはいったいなにか。小生思うに答はふたつ、内的にはヤッタという自身の充足感、外的にはアイツは強い、という仲間うちの評価、それぐらいだろうという気がします。ほかにまだなにかあるでしょうか。
 こういうのを正統的アマチュアリズムというのだと小生勝手に理解していますが、選手を競技に駆り立てる原動力がこれだとすると、FF界が世俗から孤立した位置にあるのも、そう悪くないかな、という気もします。世間にはよく、趣味と実益を兼ねるなどとしたり顔をして言う手合いがいますが、実益を兼ねたらもうビジネスで、趣味とはいいません。無償の喜びのために時間と費用とエネルギーを限りなく蕩尽するのが趣味というものです。
 要するにアマチュアリズムの使徒みたいなFFモケイ人種にとっては、ジャーナリズムなど必要なし、ということでしょう。考えてみれば、そもそもジャーナリズムは誰のためにあるのか。たとえばスポーツジャーナリズムなら選手のためにあるのではありません。競技をやらない大衆のためにあります。野球やサッカーやオリンピックなど、賑やかすぎるジャーナリズムにしても、もちろんそうです。

 FFモケイ人的正統アマチュアリズムに関連して、もうひとつ別の“美質”のことも忘れずに申しそえておきましょう。こちらは何と表現すればいいか、カッコ良く飾りすぎるキライもありますが、一種“精神の貴族性”とでもいいますか。
 性能進歩して、制限なしならいくらでも飛ぶ現在の滞空競技は、飛び制限ルールが守られることで成立していますが、競技規定のチェックシステムが作動しなくても支障なく競技が進行するという現実があります。参加者はすべて紳士で、善意の競技者ばかりであると、そういう共通認識が根底にあるからだと思います。
 曳航索の長さ、ゴム搭載量、エンジン気筒容積その他、ルール上は抜き打ち検査があり得るとされていますが、小生そのテの現場を見たことがありません。ゆえに悪気をおこした選手がその気でルール違反を冒す気であれば、現在の競技事情下でそれをすることが難事とは思いません。効果のほどは別にしてもです。しかし誰もがやろうとしない。というより、現実には多少の怪しげなことはあるのかもしれませんが、誰も問題にしない。そんな猜疑的感情が競技空間に存在しないところが、FFのFFたるところだと思います。それが“精神の貴族性”。不正して勝ってみたところで有名になれるわけでもない、FF競技本来の功利性の無さが精神的にはプラスに働いて、メディアから見離されてるのもマイナスばかりではないと、そんなふうにも思います。


FF自作時代のおわりに

 しかし安心はできません。時代は大きく変りつつあり、時代が変れば品変る世の習いで、FF世界にもいろいろと新しい要素がしのび寄ってきているからです。
 時代が変ってもメディアの関与がないFF環境だけはいぜんとして変りませんが、特質とするアマチュア精神のほうはそろそろ変質の気配がただよい始めています。商業主義に似た風潮さえじわじわ浸入しつつあるかに見えます。象徴的な例がもう何年前になりますか、競技機は自作でなくてよろしいと制度が変ったことで、ここからFFの基本理念が大きく舵を切ったことになります。
 競技者への便宜をはかって参入障壁を低くし、それで競技参加者の増加を意図したFAI(国際模型航空連盟)の狙いはよくわかります。それで得られるものと失うものとの損得勘定はどうか。しかしそういうことよりも、小生当時その話をきいたときすぐに、時代だなと思いました。FFもついに耐用年数がきて末期症状、迷走の始まりだなと思いました。いまもその考えは変りません。
 純粋なアマチュアリズムというものははかないものです。それはあるところまで続いて必ず変質します。それは時代がそうさせるので、そういう例はいくらでも見ることができます。
 自作機でなくても良いことになって、競技参加者が増えるのはけっこうなことですが、問題はそれで競技が面白くなるかどうかです。FFの命運はその1点にかかっていると考えます。
      (以下、次号に続きます)