“われわれは孤独ではない…か?”
 だれかが(たぶんA.C.クラークだったと思う)書いていたが,地上から眺めた太陽とはほぼドンピシャリ同じサイズに見える.この偶然が,人類に与えた影響の大きさは計り知れない.なぜなら,そのおかげで月は満月から完全な新月まで,見事に変身する.しかも,稀にではあるが皆既日食もおきる.あのダイアモンドリングと呼ばれる感動的な光景も,美しいフレアも,この偶然があったから見られるのだ.
 さらに考えると,月という衛星があるおかげで地球の海には潮汐という現象が生じる.海がすべての生命の源であることが,最近の生物学史の大前提らしいが,海に潮の満ち干が無かったら(あるいは今より控え目だったら)生命はここまで多様性に満ちたものになっていただろうか?
 釣りをやる人ならご承知だろうが,海の生物の食性
(食い気)は,潮の動きに大きく影響される.一見単純な港湾でも,海岸線の凹凸や水深によって単に海面が上下するだけではなく,左右に流れたり縦方向の流れさえ生じる.これらの動き・変化によって,魚が俗に言う「口をつかう」かが決まる.優れた漁師や釣り人は「潮汐表」だけでなく,季節,天候,地形,気温,湿度,といった様々な要因を考えて作戦を練り,釣果を上げる. next page

 こんなコトを考えたきっかけは,放送大学の天体物理に授業をボンヤリ見ていたら,地球・太陽・月の相互関係,つまり質量と距離の関係が潮汐に与える影響の計算方法を,教授先生が当方にはさっぱり理解不能な数式を並べて解説していたからだ.3個の天体が直線に並び,月が地球と太陽の間ある場合は月・太陽両方の引力の影響で海面は最大に盛り上がる新月の大潮となる.逆に,地球が間に入ると両方の力が打ち消しあって海面の盛り上がりは若干少ない満月の大潮となる.太陽・地球に対して,月が横の位置にあるときはいわゆる長潮・小潮・中潮になるのだろう.ただし,天体間の距離と質量が極端に違い,必ずしも完全な円軌道を描いているワケでもない.そのあたりの微妙な計算は,説明を聞いていても理解の外だったのは,無学の徒の哀しさだ.
 ところで地球上の生きとし生きるもののすべてが,太陽の核融合エネルギーを糧としている.すべての生命活動の源泉は,はるか太陽から注がれるエネルギーによって支えられている.こんな単純なコトを,心底なるほどと思ったのが三十路を過ぎてからだった.随分とボンヤリ生きてきたものだ,と思う.それまでの「機械文明の申し子」みたいな発想を改心(?)させてくれたキッカケは,その頃始めた釣りだった.手ほどきをしてくれた若い友人には,今でも感謝している.情けないことに,子供の頃に理科で習ったはずの「潮の満ち干」なんて単純明快な現象を,三十路半ばの馬鹿オヤジはすっかり忘れていた.,『何故この海岸は,来るたびに水位が変わっているんだろうか?』なんて,本気で不思議がっていたのだ.
 ところで,中学生の時に読んだ「生命の起源と生化学」(?オパーリンという学者の名とともにウロ覚え)という本には,海中で起きた偶然の科学反応・変化が最初の生命の源だったのではないか?という説が述べられていた.この説はかなり長い間,生命の起源説の主流だったのではないかと思う.しかし最近では,生命の種子(?)は遠い太陽系の外から運ばれてきたのではないか,という説の方が一般的になりつつあるらしい.もちろん,どちらの説にも確証が見つかる可能性は当分ないだろう…もっとも,巨大隕石による恐竜絶滅説を裏付ける証拠がどっと出てきた前例もあるから,予断は許されないが.                                next page

 偶然の化学反応・変化説に,真っ向から対峙したのがA.C.クラークだったのではないか?と言ったら,猛烈な反論を食うだろう.でも一般論的な意味では,そう間違っていないと思う.あの「2001宇宙の旅」で,クラークの想像(創造?)した物体"モノリス"が類人猿に知恵を与えるシーンは,彼が他の作品で描いた生命の種子を見守る創造主(神ではない)という考えの延長線上にある.モノリスは,文字通り生命の進化を確認するための試金石として描かれている.
 話を,太陽・地球・月の関係に戻そう.例えば3つの天体が,現在のような位置関係でなかったらどうだったか.我々の"元"になった生命は,順調に進化をとげられただろうか.あるいは,もっと時間がかかったかもしれないし,途中で頓挫したかもしれない.太陽の寿命には限りがあるし,生命にほどよいエネルギーを供給してくれる時間帯はもっと限られている.幸運に恵まれて人類が人類になったとしても,月が無かったり,あるいはずっと離れていたとしたらどうだったか?月は丸い岩石の固まりではないか?…という発想は,もう片方の太陽はどうなのか?あるいは小さな星たちは?という連想に直結していったはずだ.
 月がこれほど身近だったからこそ,我々は天文学というものを生み得た.地球が丸いことは遅かれ早かれ誰かが発見しただろうが,月が仲間のような存在で,ついでに太陽も変種だが同類で,しかも天球に並ぶ小さな星たちも…と次々に連想できたのは,3つの天体の大きさと位置関係の偶然のおかげだったのではないだろうか.もし月が今のようでなければ,星たちを天空に空いた小穴だと信じていた時代が,もっとずっと長く続いただろう.
 高校生の頃に読んだ「我々は孤独ではない」(W.サリヴァン著'67,絶版)という本には,地球外生命の可能性について当時の最新情報が集められていた.初期のオズマ計画に影響を受け,またその推進に影響を与えたらしい.個人的にも,随分と影響を受けた本の一冊だった.だから,SFコミック・映画の類はともかく,地球外生命の可能性については(楽しみ…というレベルで,だが)ある程度期待はしていた.           next page

 が,最近は少し考えが変わってきた.木星の衛星エウロパに,生命の可能性が云々されている.これもクラークが予言していたが,果してあの冷たい世界に生命が存在するのだろうか?少なくとも,エウロパの置かれている条件下で火を使う生命が誕生するとは思えない.彼ら(が存在したとして)には,月の満ち欠けも潮汐もない.なにしろ,エウロパ自体が「月」なのだから.
 宇宙の寿命がどれくらいなのかは知らないが,今現在我々とそれほど違わない文明の段階にある生命が,少なくともコンタクト可能な範囲に存在する可能性は,期待する方が間違っているようにも思う.
 例えばオズマ計画の創始者ドレイク博士が,あるTV番組で子供たちに説明していた.太陽を大きめのグレープフルーツぐらいだとすると,地球の直径は5〜6mm程度(BB弾のサイズ!)で,その間の距離は約10m.太陽系の一番外側の惑星までは,グラウンドの端あたり(約400m!)になる.では,一番近い恒星までは?という子供の質問に,ドレイクはニューヨークあたりだと答えた.その時彼らがいた場所は,米大陸の西海岸サンフランシスコ近郊だった……今現在,我々の知っている科学に“ワープ”という方法は存在しない.
 寂しいことだが,最近では「我々は思ったよりずっと"孤独"なのかもしれない」…と考えている.だから,今この星にいる仲間たちすべてにもっと優しくしなければ,というセリフはあまりに優等生的・奇麗事に聞こえてしまうだろうか?それでも,別段かまわないのだけれどネ.
(stupidcat)                             next page

【蛇の足(ワタクシ事で恐縮ですが…)】
 最近,英国BBCとアッテンボローが,琵琶湖畔の棚田と里山を描いたTV番組を見る機会があった.水田の春夏秋冬の移り変わりと,それをうまく利用して暮らす生き物たちを描いて,美しく楽しい映像だった.
 ただ,見ていて気になったことがあった.番組の中に登場した自然そのものや農家の人々の営みを眺める目が,かれらよりむしろアッテンボローに近い自分を感じて,いささか意外な感じがしてしまったのだ.バックに流れるいかにも"日本的"な音楽に影響されたのだとも思うが….
 少年時代には,すぐ身近に水田があったし,長じて自転車旅行や登山に熱中したから,野外生活には縁があったつもりだった.そのくせ,実はなんにも見たり聞いたりしていなかった自分に,しみじみがっかりしてしまった.未だに蛙には触りたくないし,高山植物の名はニッコウキスゲしか知らない.いつもの公園で野鳥を観察していても,生態よりもなぜか"飛行性能"に興味が傾いてしまうのは,同じ傾向の現れなのだろう.情けないことだ.
 白状すると,アッテンボローのTV番組を見て,前掲の駄文を書きたくなってしまった.「お粗末様でした」.
【蛇の手】
 蛇足ならぬ蛇手…だが,文中で紹介した『われわれは孤独ではない』/『生命の起源と生化学』/『2001年宇宙の旅』は,いずれも絶版になっているようだ.最後の作品はSF史上に残る傑作なので,困ったモノだと思う.ただし名作だけに,図書館や古書店では見つかるはずだ.他の2冊も,歴史に埋没させたくない本なのだが….
 一方のBBC製作の『アッテンボローの“Satoyama”』は,放送を見たのが01年6月中旬の深夜.本来はBSハイ・ビジョン用に作られた番組だった.こちらは,随時再放送の可能性がある(困ったのは,ハイ・ビジョン用の横長画面を通常TV用に編集してあるので,上下が狭く,当方の14インチ画面では「字幕を読む」のに苦労したことだった).
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【蛇の肩→→→“復習コーナー”】
参考HP
http://www.nasa.gov/
http://www.edugeo.miyazaki-u.ac.jp/earth/edu/solar/solarsys.html
http://www.city.yokohama.jp/yhspot/ysc/ysc/ysc.html
参考図表
http://www.edugeo.miyazaki-u.ac.jp/earth/edu/solar/orbit.gif
下図

●太陽⇒水星⇒金星⇒★地球⇒火星⇒木星⇒土星⇒天王星⇒海王星⇒冥王星
                 (?冥王星は,最近一部で存在が疑問視されている)
【蛇の腰】(本文とは何の関係もありません)
●前から気になっていたことのひとつに,欧米の環境団体が主張している『鯨の保護』問題がある.確かに鯨は,それなりの知性を持っていそうだとは思う.しかし,人間並みとかあるいはそれ以上!などという主張は,当っていないと言い切れるのではないか.鯨は,一度地上に上がり,再び海に戻って行った生物なのだ.つまり,自身の体重を支えることを放棄してしまった種だ.
●我々が今のカタチになれたのは,もちろん手を使うようになり,火を利用できたからだ.でもそれ以上に,重力に逆らう術を得るために,脳味噌をメイッパイ使ったからではないだろうか?飛行機の発明,などという些事を言っているのではない.重力に逆らって二足歩行を始めた時,片持ち式に支える必要のなくなった脳が急速に発達した.同時に,体重を支えなくてもよくなった前足がよけいなコトをやり始めた.例えばモノを投げるとか,投げるより遠くに飛ばすために木の弾力性を利用したり…猿だって枝のしなりを利用するが,それで矢を射たりはしない.
●水中で暮らす生物は,重力によって世界の上下は感知しているだろうが,自らを支える必要はない.眠ければそのまま目を閉じれば,そこがそのままベッドになる世界に暮らしていたら,快適と不快の境目などない.生物は,最低限の生命維持が保証されれば,次は快適さを追及し始める.アタマから湯気がたつほど,脳味噌を駆使して….
 自らの質量を支える必要もなく,食料は割合い単簡に見つかり,急激な環境変化もなく,天敵もほとんどない環境で,果して高度な(人間が必ずしも高度だとは言い切れないが)精神が生じるのだろうか?大いに疑問だと思う.もし鯨が,少なくとも人間型の進化を遂げていたら,彼らは多分再び海から地上を目指していたはずだ.
●個人的には鯨肉を食べたいとは思わないが,牛馬並みに飼育の対象にすれば,人類の飢餓がいくらかでも解消されるのではないだろうか?勝手な思いこみで『反捕鯨』を唱えている連中が,先進諸国でも裕福な層を中心にしたグループだということが,運動の本質を現している.飽食のツケ,と評したら怒られるかもしれないが,そう言われても仕方がない背景がミエミエなのだ.
 『反・反捕鯨』が,stupidcatの主張だ.
(「反捕鯨論者」の人たちにお願い…家に火をつけたりしないでね!まわりの人が迷惑するから)



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