“じゅげむ”
 「@毎日同じものを食べ続ける」
 「A魚の焦げを食べる」

 この2項目の共通点をご存知だろうか?答えは単簡で,習慣になると癌になる(なりやすい)というのだ.民間の俗説?とんでもない,天下の大新聞に堂々と発表された,権威のある学者が真面目な顔で主張した説だ.
 @について言えば,筆者は20年間ほど暑い時期は蕎麦,寒い時期はパスタと,1年間を2パターンの昼食で済ませていた.ハンで押したような,というのは自分のためにある言葉だと思うぐらい,ほぼ完璧にこれを通した.食物に夢と希望を抱いている人々を羨ましいとは思うのだが,当方としては食べるものの選択に費やす時間は「無駄」と決めつけてきた.厭なモノでなければ何でもいい.だから,作って単簡,食べるのも単簡な前記2メニュになってしまった.使う鍋も共通で,お湯を沸かせば仕事は半分終わったようなものだ.時間管理さえ気を抜かなければ,そう大きな失敗もない.これだけ一種類のモノを食べ続けてきたのだから,さぞや体内は癌細胞だらけかと思う.が,詳しく調べたことはないのだが,今の処これといった不具合は起きていない.他にも,これほどではないけれど似たような食生活を送っている人を知っているが,癌に罹った話は聞かない.
 一方Aの「魚の焦げ」だが,もしこの説が当たっていたら,王侯貴族の類を除く普通の日本人は,今頃絶滅しているのではないだろうか?最近は,焦がさず中までこんがり焼ける調理機器が普及したが,一昔前までは魚というのは焦がしてこそ中身が美味いものだった.焦げた魚と縁がなかったのは,支配階級のごく一部だけだったから,我がNIPPON国民は,もうとっくの昔に死に絶えていてもおかしくないと思う.癌が死亡原因の一位を維持しているとはいえ,民族滅亡の危機を招くほどではないようだ.
 だからと言って,毎日同じモノを食べ続けたり,焦げた魚を好んで食べることはないのだが,つまらない説を気にして胃潰瘍にでもなったら損だと思う.そうした説を発表する「優秀な人たち」は,自説が社会(特に,信じやすい無邪気な庶民)にどういう影響を与えるかなどということには,まったくアタマが働かないのだろうか.もちろん,彼らにも世俗的な欲望があって,「優秀さ」を名声や収入に繋げたい気持になるのは仕方がないが,マスコミに向かってものを言う事の意味を理解している研究者は驚くほど少ない.
 例えば,WHOという国際機関があって,しつこく禁煙キャンペーンを続けている.タバコをこの世から追放しよう!というのが最終目的らしい.だが,なんのことはない「好きで吸っていてたまたま病気になった責任を,タバコ会社になすりつけて金にしようという連中」の後押しをする以外,あまり成功しているとも思えない.喫煙人口は,あまり減っていないようだ.せめて妊娠期間だけでも止めた方が良いらしいのだが,女性の喫煙率は高くなっているようだ.
 この手のキャンペーンの弱みは,単簡に言うとすべての論拠を統計に頼っていることにある.統計は,あくまで確率論で成り立っているから,保険会社や公共団体の指針にはなっても,個々人にとってはほとんど意味を持たない.例えば,何万人に一人しか当たらないのだから宝くじを買っても無意味だ…と説いたって,大多数の人は買うのをやめないだろう.当たる人だけが買えばいいのだが,外れるヤツがいるからこそ成り立つのが宝くじだから,現金をくじと交換する時は誰でも当たるのは自分だと夢想している.
 「B喫煙者の×%が癌になる」
…と言われても,100(%)−×(%)=自分,と思いつつ紫煙を吸い込むのが普通の人々だ.前の例と同様,受け取る側の心理を慮ってデータの公表方法を考えるといった配慮が,WHOなどの機関・組織・団体には欠けている.脅してもスカシてもダメな場合は,騙すという手もある.
 もうひとつこの問題に限って言えば,研究者やそれを支えている人々の多くが,本質的に勘違いをしているらしいフシがある.それは,『みんな「本当は」タバコをやめたがっているに違いない』という思い込みだ.やめたいのだけれど,意思が弱いためにやめられない気の毒な弱者を救うため…という思い上がりに似た感覚が,彼らの行動パターンにプンプン臭う.自分たちはそのことに気付いていない点が第三者の笑いを誘うし,また説得力の弱さに直結しているのではなかろうか?WHOをはじめとする,人の健康を心配してくれる機関・組織が発表している「健康で長生きするための指針」をすべて守れば,本当に楽しく明るく生きられるか?という疑問について,もう一度考えてみた方がいい.
 例えば一生の間,ほとんど同じものしか食べない民族はけっこう多い.特に寒い地域の人々にその傾向が強く,一生野菜の類を食べない民族もいるし,宗教の戒律で特定の食物を死ぬまで口にしない民族はいくらもある.日本人だって,つい百数十年前まで肉類に縁が薄かったし,地域によって魚は干物しか知らずに死ぬ人だって多かった.地域によっては,手に入る魚は傷みが心配でしっかり火を通さなければ食べられなかったから,表面が焦げているのは常識だった.魚に限らず,焦げには独特の食感と美味さがある.
 煙草と酒は,戦前までは収入に対して高価だったが,現在では普通に働いていればこれで身を持ち崩すのは難しい.といって,アルコホル依存症患者やへヴィスモーカーが倍増した話は聞かない.人間というヤツは,案外無意識にバランスをとって生きる術を心得ているのではないだろうか?
 『じゅげむ』は,子供の命と名前の長短が関わっていると信じた親の悲劇を描いた噺(古典落語)だが,@〜Bのような議論を聞くたびに,この噺を思い出してしまう.人が本来持っている生物としてのバランス感覚を無理にねじ曲げようとすると,手痛いしっぺ返し喰う心配がある.食べ物や嗜好品で神経をすり減らすぐらいなら,無頓着に暮らして病気になったとしても,まあ我慢できるのでは…という気もする.結果責任だけは,自ら負いたいではないか.     (stupidcat)
【蛇の肩】   (「…どこが肩やら,わからん!」⇒故・枝雀師匠の噺より.)
 いいわけor弁解になるが,最後のセリフを誤解されると困るので一言付け足しておく.
 本当に病気で苦しんでいる人には,少々言葉が過ぎたかもしれないとは思う.筆者が怒っているのは,文中で取り上げたような「他人様の健康を気遣ってくださる人・組織」の無神経さだ.むやみに健康だと思っていた筆者自身も,先年ついに病に倒れ,生まれて初めての入院を経験したから病人の苦しさはある程度理解しているつもりだ.
 スタインベックは書いている…
 『ことしの冬、私はかなり重い病気にかかった。それは人聞きのよいように、寄る年波のせいだとされた。病気がなおると、だれでもいわれるようなことをいわれた。万事ゆっくりやれ、目方をへらせ、コレステロールがたまらないようにせよ―と。こういう男たちがたくさんいるので、医者は患者にいう言葉を祈祷書の文句のように暗記してしまったにちがいない。(中略)
 …ほんの少し寿命を伸ばしてもらう約束を取りつけるかわりに、もう無茶なことはしないと誓うことになる。ついには一家の長が、一番年下の子供になってしまう。
 私もこんな目に会いはしないかとゾッとして、自分の生活をふりかえってみた。というのは、私はずっと無な生活を続け、ひどく酒を飲み、たべるときにはたべすぎるほどたべ、たべないときには全然たべず、二十四時間ぶっ続けに眠るかと思えば、二晩ぐらいは一睡もせず、あるときは働きすぎるほど働き、あまりにも長く栄光にさらされ、あるときは虚脱状態に陥る生活を続けてきたからである。(中略)
 いまさら、ほんのわずか寿命を伸ばすことと引き換えに、無茶な生活を捨てたいと思わない。(中略)
 あまりにも多くの人々が、もたもたし、感傷的になって、舞台を去るのを一日延ばしに延ばしているのを見た。生き方としても悪ければ、舞台としてもおそまつである。(後略)』(「チャーリーとの旅」・大前正臣訳)
 ほんの少しの寿命…だって,もうすぐ命の絶える人には何より貴重だ.でも,筆者は最近(自分を含めた)人々があまりにも思い上がっているのではないかと,心配している.貴方の命は,それほどまでに大切なのだろうか?貴方が生きていることに,どれほどの意味があるのか?
 「生き方としても悪ければ,舞台としてもおそまつ」な終末だけは迎えたくない…と考えるのは,やっぱり傲慢なのだろうか?「ずっと無茶な生活を続けてきた」身ではあるが,「無茶な生活を捨てたい」とはどうしても思えない筆者は,やっぱり阿呆なのだろうナァ〜.



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