問題点をいくつか拾い出して考えます

 まず論点の第1は、このご時世になんでまた操縦を放棄してするフリーフライトなのかということ。20世紀初頭に人類が模型ヒコーキを作って飛ばす楽しみを知り、まだ無人機の遠隔操縦技術が未発達だった昔はともかく、コントロール技術なんでもありの現代に、敢えて手足を縛るどういう理由があるのか。
 論点その2。なぜ中途半端な滞空時間競技なのかということ。レシプロ期間であれ電動モーターであれ、滞空時間など好きに選べる時代。長く飛ばせますなんて、別に手柄でもなんでもない。たしかに昔は長くは飛ばなかった。嘗て飛ばなかった時代の残像をどこまでひきずれば気がすむのか。
 論点その3.F1B競技がなぜプリミティブでもあり時代錯誤的でもあるゴム駆動にこだわるのか。その理由。
 論点その4。F1Cクラス。メカニズム社会の常識からみれば、もう何もかも異常でほとんど病気。倒錯の世界に頭を突っ込んでいるように見えます。超高回転レシプロエンジンに組み合わせる超小径・超低ピッチプロペラ、おまけにわずか数秒と超短いエンジンラン。モータースポーツのほうに、ゼロヨン加速を競うドラッグレースという特異例があるにはありますが、こういうのがコンティ二アスな運転を常態とするレシプロ機関のまともな使い方なのか。それで有り難い推進効率が得られるというのならまだしもですが、爆発的な上昇加速がもしお望みというなら、花火の打ち上げにならったロケット発射方式でどうだ、という気になります。
 論点その5。以上の考察からの帰着として、FF国際級の3種目のなかではF1Aグライダー競技がいちばんまともで、滞空競技本来の趣旨に適っているように思えます。なにより自力機関は持たない、という姿勢がシンプルかつ明快です。地球上では重量ある物体は落下する、エネルギーを使わずに空気力を有効活用して出来るだけ長く空中滞在したい、させたいというのは、人類の根源的な欲求でしょうから。


それでもFFが“愛される理由”


 さて、この話はこれで終わるのではありません。思いきり意地の悪い見方を示しましたが、近代合理主義の立場からFFの反時代性をあげつらっったところで、問題が片づくわけでないことを、小生として承知しているからです。使命は終わってもアソビは残る。支持者に愛されて息長く存在し続けるものにはそれなりに理由があり、それは合理主義とはあいいれない別種の原理であるのかも知れない。
 その原理というのは何だ、と問われれば、それは人間の感性に訴えかける何かの要求だと、少しあいまいな言い方だけど、そんな風に思います。FFの場合、もっとハッキリ言ってしまえば、それはFF愛好者にひそむ“美”への愛だと答えたい。

 “不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて、空に吸われし十五の心”、ご存知石川啄木の歌ですが、唐突に啄木さんにご登場願ったのは啄木さんにご用があるのではなくて、この歌の下句“空に吸われし十五の心”の部分をちょいと借用したいがためです。
 少年時の啄木さんが虚空の彼方に模型ヒコーキの機影を追っていたわけではもちろんありませんけれども、FF愛好家の心情というものは、“空に吸われし”少年の心とそんなに遠いものじゃないと思うのです。手元から愛機がはるかに手の届かない上空にいて、もう大自然の一部みたいになっている。地上から見上げてひたすら愛機の行方を追う少年のようなウブで一図な心がある。FFのダイゴ味というのは、これだと思うのです。この場合、地上の操作で小賢しくコントロールができてしまうラジコン機では、しっくり少年の心と重ならないのであって、上空に心情だけ飛ばす恍惚の時間とは参らない。だからFFが好き。そうして上空を飛翔する愛機の姿は限りなく美しい。
 しかしです。よろず歴史や伝統を負う分化・技芸というものにはみな同根の悩みがついて廻るようで、リアルタイムで進行する現在という時空間と微妙にズレが出来てしまうという現実です。それは過去のある時期におけるニーズによって生まれ、成り行き上、現在に生き残っているもののもつ宿命でしょうか。FFに現時点求められるニーズが果してあるものかどうか。
 FFモケイ界の先行きのことはわかりませんが、小さく咲いても花は花、これでFF文化だという特質を忘れずに書いておこうと思います。それは特異な競技ルール、得意なテクノロジーによるとはいえ、ただただ競技に勝つために歳月をもって磨かれた一種特異な様式美、機体の姿においても飛びぶりにおいても、他種の模型ヒコーキには及びがたい美しさについてです。FF愛好家を捉えて離さないのは、たぶんこれではないか。たとえば、上昇の頂点でプロペラを畳んでやおら滑空に移るあたりのF1B機の優雅さ美しさ。さきにF1B機のゴム動力駆動をなんと時代錯誤な、とケチをつけましたが、理由はそれが美しいからだ、と言われてしまえば、また仕方ないかな、と納得できないでもありません。
 総じて現在の一流FF競技機は、見る人が見れば洗練の極に達して感動的なまでに美しく、それはほとんどセクシーですらあるでしょう。FF競技機の意図するところは美術品とは違いますが、ある条件下でのあくなき性能の追求は、究極的には“美”に向かうものと見えます。