「ランチャーズ」だい好き

 「ランチャーズ」はいい。「ランチャーズ」が好きです。構成メンバーの平均年令が若いから、遠慮がなくて毒舌・悪口の言いたい放題。悪い意味じゃなく野放図なフンイキがあって、このグループの空間に囲まれていると、浮世の分別やら何やらから解放されるのがいい。とりわけ、小生みたいなもうHLG選手じゃない老骨ともへだてなく仲間づきあいをしてくれる敬老精神(かどうだか)がまた、いまどき結構な心掛けです。
 というわけで、小生「ランチャーズ」を気に入っています。じつは、事務局から新しい年向きの原稿を依頼されて、いくらかはヨイショ気分のノリで書いているんだけど、そればかりでもありません。
 当節、FFモケイ界をざっと見渡したところ、機体デザインにおいて各選手勝手次第で、HLG界ほどバラエティに富む分野はほかにありません。模型ヒコウキ作品を芸術とまで持ち上げる気はありませんが、これだって自己発現の場、創意と創作の世界だから、“オレのはコレだ”と自己主張をぶっつけて競い合うのが本筋だと思うのです。自主開発を放棄して、どこぞの国の流儀にかぶれ、どの機を見ても同じ顔付に見えてしまう昨今の国際級世界とは、そこが違います。まだあります。事務局の平尾編集人が、けっこうチャランポランというか大まかで、気まぐれ寄稿人である小生と波長が合っています。大まかがすぎて校正が乱暴なため、時には肝腎なところが文意不明になったりするので、書き手としは困りますけれど。
 だいたい仕事でもないのに、長期にわたり毎月マメに会報発行を続けるなんて、ナミの人物には出来るものではありません。このテの仕事はマジメ一方の人間には不向きとしたもので、毎号誌面の充実を心掛ける完璧主義者だと、たちまち息切れしてしまいます。この種の発行物は、原理的には原稿は集まらない、誌面は余る、ですから何とかやっつけて余白を埋めるよりしようがない。平尾兄、さきごろは数学者゛ゲーデル先生のことなんか書かれたので、小生しばらく考えて何のことかと思いましたが、「不確定性定理」もいいですが平尾兄の趣味領域はまだ、音楽・オーディオ方面なんぞもにも及ぶ筈だから、”継続は力なり” とか申します、何でも書きたいように書いて誌面埋めてでも、息長く続けられることを望みます。

HLGのことも書きたいが

「曳航グライダー」の次が「プロペラとゴムの話」と、およそHLG専門誌らしくないことばかり続けて書いたので、ときにはHLG関連のことも書かなきゃいけないなとは思っています。しかし申しわけないが、今回書くのもHLGとは関係がなくて、まるで違う方面のこと。私事・公事とりまぜて、言ってみてればFFモケイをサカナにした、一種気まぐれ文明論みたいなものを狙っています。
 技術よりの話じゃなくて実利性はゼロですから、読まれて役に立つという話じゃありません。まだ秒読みの声こそ聞こえませんが、すでに人生終局という自覚のある小生としては、しかし書いてみたい。小生のごときは、実質的には20世紀で終わっていて、命ながらえるにしても21世紀はついでに生きながらえるたぐいの人間ですから、置き去りにした20世紀を眼に見える形で回顧してみたい欲求があるのです。
 HLG選手諸兄には、もう少し言いわけになります。小生流儀のHLG論議も試みたいとは思っています。「ランチャーズ」の前身、小生が現役選手だった(まるでへぼだった)「東京ハンドランチクラブ」(T・HLG)の時代からずっと至近距離にいて、HLGの人と技術の流れも見てきましたから。ことわざに“神は細部に宿り給う”とも申しますから、小さな小さな、デリケートな部位変化がどう大局に影響を及ぼすか、みたいな考察を試みたい。
 たとえば翼断面問題で、ハイポイント周辺の曲面形状変化と空力特性の関係とか、あるいは垂直尾翼面積をどんどん切りつめて行くと、上昇頂点でのかえりのぐあいや安定性能がどう変わるか、みたいなことも含めてですね、いっぽうグローバルなほうの問題なら、最近のめざましい機体進歩によっても、今なお誰かによって静気流滞空60秒が超えられたという話を聞かない、これは待っていても日本人にはダメなのか、というような疑問。小生ずっと、今でもこの問題への関心を持ち続けているのです。

FFという名の文化

 退役老人のヒマな考えといわれるかもしれませんが、小なりとはいえどもFFをひとつの文化形態と見立てて考えます。航空文化の方すみに、ひっそりと咲いている花は花。これはどういう文化なのか。過去・現在と見てきて、さてどういう未来像を画き得るか。
 この議論にあたってては、踏み込んでしまおうか、どうしようかと、退役老人の小生といえども、逡巡を覚えます。べつに世紀の変わり目だからというんじゃありませんが、目下の情勢からすると、いずれ誰かがいわなきゃなんない。FFの競技ルールがどう変わるかというレベルを超えて、FFの存在自体が問われる構造的な問題だからです。勇気を出して言ってしまいましょう。
 小生の見解をひと言で表現してしまうなら、20世紀に生まれて育ったフリーフライト競技という航空文化は、20世紀をもって使命を終了したんじゃないかということです。あとは惰性だけで続けていると。
 FF模型人たる小生がこれを言い出すのはつらいものがありますが、どう考えてもそのようにしか思えない。
 この世の中、なにごとにおいても耐用年数・寿命というものがあり、且つまた、人智をもってしては抗し難い時代の流れというものがあります。フリーフライトという競技形態が生気をもって21世紀を生き続けるのは、相当にキビシイものがあるのではないでしょうか。                                                (以下次号)