●連載第5回(完結篇)
●フリーフライトという選択

 古い話を持ち出すようですが、FF競技の歴史というか沿革をざっと辿ってみることにします。
 はじめ模型ヒコーキ競技は(まだフリーフライト競技とはいいません、念のため)すべて滞空時間競技として出発し、たヾ長時間飛ぶのが勝ちという素朴きわまる競技スタイルでした。技術が未熟というより、まだ何が何だかわからない手探り時代で、とにかく長く空中滞在させればお手柄という時代だったのです。もちろんMAXタイム制もデサマ落下装置もまだ登場しません。日米戦争末期まではだいたいそんな風でしたが、敗戦後GHQ(連合国軍総司令部)により模型ヒコーキ活動が解除になると様子が変り始めました。
 戦時中はそれ一辺倒だった実機技術の影響下から離脱して、無人・小型・低速という、模型ヒコーキ独自の道を歩み始めることになります。降着装置(つまり車輪)が必要とか、全長に比例した胴体断面積を有しなければならないとか、ほとんど無意味な規定が撤廃され、低レイノルズ数空域の研究も進んで模型機が飛躍的性能向上を遂げるのもこの頃からです。

 一大変化は模型ヒコーキ世界にコントロール技術が導入されたことで、ここから模型ヒコーキ界の様相は一変します。飛ばす技術が進んでいろいろなことが出来るようになり、長時間滞空が模型ヒコーキの第一義ではなくなったのです。模型界はF1(フリーフライト―FF)、F2(ラインコントロール―Uコン)、F3(ラジオコントロール―ラジコン)に分化してそれぞれ独自方式の競技を行なうようになりますが、このとき老舗(しにせ)である滞空競技陣営はどうしたか。すでに飛びすぎる模型ヒコーキ時代を迎えているのです。ますます発展拡張するラジコン陣営を横目に意地を張ってなおも操縦を拒否し、飛びすぎ制限規定を細かく工夫するなどして、滞空競技専門、フリーフライト独自王国の旗を立てることにしたのでした。ということで、このときFF陣営が選択した方向は、その自覚があったか否かは知らず、反時流的とまではいえずとも、極めて細い道のほうだったといっていいように思います。

 航空機であれば何の形式であれ、手足を縛る操縦の放棄という決断は大変です。操縦を放棄してあと何をするのか。FFのやるのは、飛行効率の追求です。このことは前作「プロペラとゴムの話」で書きましたから繰返しません。しかし飛行効率の追求も技術が進んで天井に近くなると、やることが残り少なくなるのです。求心力が薄れて、諸事バラけてきます。それがFF界の現況と思います。


●FF機は空力ロボットです

 操縦しない無人機がどうして安定に飛ぶか、FF競技が成立する基本条件ですが、これがあるのでFFが生き伸びてこられたといえます。そうしてそれは奇跡的な幸運です。
 空を飛ぶ飛行物体、人間の乗る航空機や鳥や昆虫などの生き物は、自らの意志と力で飛行安定を創り出して飛びますが、FFモケイヒコーキはそれに代わる物理的な空気力学的支援により安定を創り出して飛びます。幸運というほかありませんが、この幸運を「自律安定機能」というのです。ただし、FF機の安定問題は現在では緊急課題とはいえません。なぜならFF機の性能追求の過程でこちらのほうも一緒に高度の発達を遂げてしまったからです。しかし、FF機の「自律安定機能」問題は、ほかの航空機にはない空力的テーマで、これはこれで面白いのでやってみたい気はしますが、ここは技術論の場でないので深入りしません。それでもわかる人にはわかると思いますので一言だけ申しそえますと、FF機の「自律安定機能」は実機理論書にある安定理論とは別物で、飛行方位へのこだわりを放棄することで生み出されているのだと、このことを指摘するにとどめます。

 以上、「自律安定機能」問題をなぜ持ち出したかといいますと、FF機の本質はこの安定機能をフル活用して飛ぶ空力ロボットであると、これを言いたいからです。滞空目的だけを与えられ、あと飛行スタイルなど勝手しだいという空力ロボット。
 それゆえに、FF競技機が操縦を放棄したうえに自作まで放棄してしまうのを残念と考えるのは、空力ロボットをどのように仕組むか、アイデア勝負がオイシイところなのにと、小生そう認識しているからです。
 NHK−TVが恒例的にやっているイベントに、学生対抗ロボットアイデアコンテストというのがあります。競技テーマを与えられて、学生達がアイデアを繰り出して取り組む様子が見ていて面白いのですが、奇抜なアイデアあり奇怪なモデルありで、考えて創り出すところに妙味があると考えます。たヾ辛口的な私見を言わせてもらえば、言葉の厳密な意味ではあれはまだロボット競技の域に達していません。リモートコントロール競技ぐらいのところです。なぜなら人間が操作しているからです。比べるとFF機競技のほうは、完全なロボット機競技です。こんなこと誰も言ってませんが、小生はずっと昔から、FF競技の本質はロボット機競技であると、そう考えていました。

 なんとなく中途半端におわっていますが、競技機の自作問題をこれ以上続ける気はありません。外国ではどうなっているのかわかりませんが、わが国では相当程度に競技機のブラックボックス化が進んでいて、完成機のマーケットのような仕組みも出来、競技はその上に成立しているからです。それにこの問題は深入りするほどに生臭くなる傾向があって、小生それも好みません。
 すでに時代は変わりました。老生ももう現役選手ではありません。というわけで、ここのところは辛口コラムニスト山本夏彦翁の口ぐせを真似て、なってしまったものはしょうがない。ならない昔には戻れない。小生のひとり言で終わりにします。


●技術をウリにできるモータースポーツ誌

 1誌でいいからFF専門誌があればいいなとは誰もが思います。けれどもそれは不可能です。専門誌が商業的に成り立つためには、まず必要数の読者が要ります。読者は多いにこしたことはありませんが、最低で1万もあれば大丈夫。読者数より広告スポンサーが付くことのほうが大切で、そのためには背景に産業的・商業的基盤が不可欠です。ケースによりいろいろですが、ふつう趣味専門誌の場合、営業収入の3分の2ぐらいを広告収入が占めます。
 以上を見ておわかりのように、FFにそれを望むのはムリというものです。FFは産業・商業社会と無縁の道を選択してしまったのですから、こうなったら意地を張り通すしかありません。FFは仲間うちの会報か機関紙の充実をはかるしか方法はないのです。

 うらやましいことに、先端テクノロジー記事を扱って商業的に成功している趣味の専門誌群があります。モータースポ−ツ誌業界です。一誌だけではジャーナリズムとは言えませんが、多数誌が特色を競って読者の奪い合いをし、スター筆者も何人かいますから、もう本物のジャーナリズムです。人気と実力の筆者連が健筆をふるい、受けとめ消化する読者層があります。業界ジャーナリズムが良いほうに機能して、モータースポーツ世界を面白くしているわけです。
 小生がモータースポーツに特別な思い入れがあるのは、むかし若気のいたりで2輪のレーシングチームを作ったことがあるからです。レースに弱い地方の3流チームで「小田原ルート1」。模型ヒコーキ趣味に軸足を移す前は、もっぱらモータースポーツに熱心でした。
 もう40年ほども前の話で、小生自身が選手としてサーキットを走ったことはありません。モータースポーツの主軸が2輪から4輪に移ってからは、レース場通いの観戦だけです。鈴鹿サーキットから富士スピードウェイに、2輪4輪を含めて初期時代の主要レースはほどんど見ています。
 さて、現在のF1レーシングカーは航空機とはまた別様の空力マシンで、自重に数倍する逆揚力を発生させ、地面に吸いついて走ります。そうして、直線とさして変らない信じ難いスピードでカーブを走り抜けます。老齢の今も、小生がF1興味から離れきれないのは、レース興味もさることながら、F1界あげて空力開発バトルの様相を呈しているからです。勝手な想像ですが、いま空力技術をいじる面白さの真只中にいるのは、航空技術者ではなく、F1技術者連中ではないかと見ています。回転する巨大な4輪タイヤを始め、凸起の多い車体構造では、空気流れの複雑怪奇なこと、天才的技術者でも手こずるに違いなかろうと。そうして、サ―キット1周ラップコンマ何秒かの違いが、主として空力対策の巧拙で生み出されるという現実。
 そういう小生にも、モータースポーツは今では霞んで遠い存在になりました。F1、16戦ほどのうち、半分ぐらいを深夜ねむい目をこすっての観戦ていど。情報にもうとくなりました。レースかよい場をしなくなって久しく、専門誌の伝える最新テクノロジーに、小生のいまの理解力ではついていけません。
 それでもF1チャンピオンシップを争うフェラーリとマクラ−レン両チームの至宝とされる主任デザイナーが、揃いも揃ってCADシステム(コンピュータ利用設計システム)が苦手だと告白して、珍事とされている位は知っています。製図板を前に、エンピツをなめなめ(かどうかはわかりませんが)線を書き足したり消したりやっているうちに、妙案が浮かび、イメージが固まってくるんですと。こういうの、模型ヒコーキの設計にも参考になるんでしょうか。


●TVとFFの相性について

 最後はTVメディアとの関係です。
 メディアといえばTVという時代ですから、TVとFFの相性問題をさらって、FF対メディア論議の終りとします。
 FF模型ヒコーキの形の美しさからすると、TV画像として映えそうに思われますが、地上で写してならともかく、FF競技の実況放送にどうかといえば、表現力不足でまずダメと思います。競技機が天空高く舞い上がって豆粒のようになるといえば、選手にとっては喜ばしい成功飛行ですが、これが映像的にはまるで魅力がない、そういう排反する関係ですから、TVがまっとうな競技の実態を伝えられるわけがありません。TV屋さんは、おかしな失敗飛行ばかり狙うようになります。

 4半世紀ほど昔の話ですが、あんまり愉快でなかったTVとのかかわり合いのことをお話しします。まだ日本選手権が滝ケ原演習地で行われていた時代です。
 紹介者があって、NHKの「ニュース9」番組用に自宅が1日、競技会場が1日の長時間にわたる取材を受けましたが、実際に放映されたのはF1B機が上昇の頂点で悪気流に捲き込まれてスパイラル降下するという、いちばん不出来な失敗フライトシーンだけでした。あとの長時間取材は全部カットされてしまったのです。さすがにあとで、あのときは緊急ニュースが入ったのでと詫び電話が来ましたが、これに懲りて以後TV取材はお断りするようにしています。

 それとは違いますが、TVの小さな四角の二次元平面では飛行のダイナミズム表現にまったく不適と痛感したのは、小牧飛行場でF4ファントム機を操る米軍ブルーエンジェルス曲技チームのアクロバット飛行演技を見たときのことです。現場での身のすくむようなスリルと感動、つまり臨場感は、あとで見た市販ビデオではかけらほども実感できませんでした。そのとき得た小生の結論は、天空半球形の飛行空間はあまりに広すぎ、小さな二次元平面ではまったく表現力不足ということです。
 表現力不足とはまた別の意味で、航空イベントを扱いながらTVメディアの本質的限界を露呈してしまっている例に、NTVが毎年夏に行なっている、“びわ湖鳥人間コンテスト”があります。もう20年以上も歴史のある人気イベントですが、これがもうマンネリ化して、一般視聴者にはどうかわかりませんが、飛行機好きには面白くありません。面白くない理由は、競技参加者が機体構造にどんな工夫をこらして出場してきているのか、皆目わからないからです。とくに注目が集まる常連出場機なら、昨年機とどこがどう違うのか知りたいわけですが、そういう部分はいっさい切り捨てられています。参加者苦心の手づくり機も、単なるブラックボックスとしか扱われていません。TV局はもちろん承知でそうしているので、技術内容の高度化・専門化を許さないTVメディアの限界をそこに見ます。
 以上のような理由で、FF屋さんが何かの事情でTV局の取材を受ける機会があっても、過剰な期待を持たないほうが、よさそうに思います。そのほうが、あとでの落胆が少ないからです。

 もともとTV好き体質ではないのですが、老来ますますTV離れが進むようです。余談になりますが、TV放送で小生がいまいちばん気に入っているのは、碁・将棋番組です。ここにはスポーツ番組にように絶叫アナウンサーや場違いな有名人ゲストもなく、一流専門化だけが登場して専門芸を見せてくれます。更に解説者が超一流なら対局者を食ってしまうこともあり、それも見どころのひとつです。


●いっそ商売気を出してみては

 以上、ながながと書きましたが、FFと外部メディアの関係論議、気張って書いたわりには収穫が無かったので拍子抜けしているところです。そして結論。FFにどこからも支援はこない。自力でやって行くしかないということです。

 FF界の急務は新しい人材を呼び込むことです。FF界の未来はこの1点。新しい人よFFに来い。
 お笑いになるかも知れませんが、FF界の活性化案をひとつ出します。
 競技を思い切って、スポンサー付きカンムリ競技にしてみてはどうか、という案です。物好きなスポンサーが見つかればの話ですが。
 さきに賛えた美しいアマチュア精神と離反する考えですが、じっとして衰退を待つのとどっちが良いかの選択ですから、そんなこと気にしません。もう21世紀、20世紀と違うやり方で一歩を踏む出してみるのも面白いのではないかと考えます。
 FF行事はひっそりとではなく、派手に仰々しくやること。そうやって世間の耳目を集める。世界選手権の結果が良ければメディアに触れまわる。一社でもひっかかってくれれば、もうけものというわけです。FF屋に苦手な広報・宣伝はスポンサーさんが協力してくれる筈だから、こちらからは競技を魅力あるものにして、文化事業(FFのこと)への協賛スポンサーさんのメリットになることを考えてあげる。それで共存共栄、そううまくいけばいいけど。本気にされなくても結構ですが、小生の言いたいのは、そろそろお時間、少しは商売気を出して動いてみてはどうかということです。                                   (完)


                                (次は気分を変えて、“まちだーあほうどり”由来を書きます。)