◎返事対象記事⇒  モンゴル、中国、北朝鮮(日本チーム)


 
◎ 名前:高田@KFC
◎ 作成日:2007.7.4(水) 11:58, 219.97.225.238

  中国も大変ですか…     以前内容以後内容    

中国チームの栄枯盛衰はドラマですね。
意外に早く1960年代にはソ連から学んで世界のトップ水準に到達していたそうです。
教師になったのは日本の航空模型の影響を受けた第1世代たち(FAI窓口の黄永良さんなど)、当時溌剌と練習に励んだ第2世代たち(郭浩洲さんたち)、その運命も文化大革命で砕かれました。
文化大革命の収束に向かうとき、地方に下放させられ所在もわからないなかで捜索し救出する努力がわずかに残った幹部(黄さんはその一人)たちによって献身的におこなわれました。郭浩洲さんは農村で栗拾いしていたそうです。
そして1979年アメリカのタフトに現れたのです。急速に回復できたということは彼らのもともとの到達点をあらわしているのでしょう。この大会で日本チームにコンタクトを取ってくれました。まだ外事法の縛りが今の北朝鮮並みの時代の中、勇気があったものです。
このときの選手たちは第2世代でしたが、彼らは教練となり各地で第3世代を急速に育てました。
そして1986年の第1回日中友好競技大会です。1979年の驕りが打ち砕かれた大会でした。日本のFFが飛躍的に進歩した画期的なできごとでした。また競技への根性を学んだのです。
彼らは国家の厚い庇護にありました。社会主義国の体育選手そのものの条件でした。
彼らのクライマックスはたぶん1993年の第7届全国運動会(四川省)だたと思います。そのあと全国運動会の種目からも外されました。この大会でF1B団体優勝の天津の王文礼くんへのご褒美は家1軒だった。
各地の拠点、航空運動学校も自分でカネを稼いで暮らしていくことになったのです。経済の開放とは荒々しいものです。
各地の選手は、模型店を始めたり、模型製作会社を興したり、自活の道を探りました。二足の草鞋で選手活動は大変だったと同情します。河南省のF3Bチームがオランダまで列車で向かい息絶え絶えで試合にならなかったのはそんなときでしたね。
北京にも選手が始めた模型店がありますが武士の商法であきまへん。素人が始めたRC店は大繁盛です。模型製作も初めだけで尻すぼみ。サラリーマンになったり、他の事業に転進したり散々なようです。
現在はかろうじて模型航空の意地を保っている皆様がなんとか続けている様子です。
FF完成機の販売も本家のロシアが商売を始めたらコピー品は売れません。
今後の展望としては、案外素人さんたちの台頭が期待できないかと思っています。
RC店を見ても、その購買ぶりはすさまじいです。カネがあります。
日本やアメリカのようにカネのある人々が趣味として熱中しだしたら展望があります。
これが第4世代にならないか楽しみです。
たしかにカネ、カネの時代ですが、豊かさは趣味に向かうと確信しています。
RCにない高尚なFFに気づいてくれたらうれしいです。
しかしアメリカでもFFからRCへの転向が見られます。FFの運営に変化が必要なのかも知れません。

◆121.3.80.70 津田晃英 − そんな状況ではFFの大会は地方大会、全国大会とも行っていないと言う事でしょうか。
◆2007-7-5 0:34:27 66.180.82.82 ランチャーズ − 政治が絡むと無茶苦茶!